興来国奇譚

興来国奇譚 20

「お掛けくださいませ」
 祐榎の言葉に広潤はひとつ頷いて、先程まで座っていた椅子に腰掛けた。
 それを見届けると祐榎は歩を進めつつ、彼の前に置かれた、未だ手をつけた様子の無い茶碗に目を落とした。
 彼がこの屋敷を訪れた時に出されたものであるなら、供されてからかなりの時間が経っているはず。すでに中のお茶は冷めていることだろう。温かいものに変えるよう、彩季を呼んで伝えなければ。いや、彼女のことだ、それも見越してそろそろこちらに来るかもしれない。
 そんなことを考えながら、静かに広潤の向かいに座る。
 その様子をじっと見つめていた広潤は、見られているとようやく気づいた様子の祐榎に戸惑うような視線を向けられ、唇の端に苦笑の色を滲ませつつ口を開いた。
「なるほど。あの方が貴女を気に入るわけです」
 ため息とともに呟かれた言葉。
 あの方というのが秀慧だと思った祐榎は、曖昧に微笑んだ。
 自分にも、自分のどこを彼が気に入ったのかがわからないのだから、どうにも答えようがない。
「けれどそれが、仇となりましたな」
 仇?
 その意味がわからず、眉根を寄せる。
 彼に思いを寄せられるのは、そんなに悪いことなのか?
「仇、とは?」
 その単語を訝る祐榎の質問には、彼は答えを返さなかった。
 椅子に深く腰掛けた広潤はゆっくりと瞼を閉じ、自身の中の葛藤を断ち切るかのように長いため息をついた。そんな彼の様子にただならぬものを感じ、祐榎はそれ以上問うことができず、否、問うてはならぬように感じ、口を閉じる。
 すこしの間重い沈黙が続き、たまらず祐榎が口を開きかけた時、広潤が低い声で言った。
「回りくどいことは好きではない。単刀直入に言いましょう」
 そうしてゆっくりと瞼を開ける。
 その瞳には一切の感情が無かった。
 冷たく鋭い視線が祐榎を見据えると、すっと細められ、少女を貫く。瞬間、びくりと大きく身体が震えた。
「祐榎殿に王命が下りました」
 王命、と、祐榎は口の中で呟く。それが彼が訪れた本当の理由なのだろう。
 彼のその口調の強さは、これが絶対的な命令だと告げていた。
 それは見えない糸となって祐榎を縛り付けたように感じ、一瞬で全身が強張る。
 冷たい汗が頬を辿り、ごくりと喉を鳴らした。
 まさか、やはり自分の出生のことを?
 王が自分だけに用があるとなると、それしか心当たりが無い。
 広潤の口から厳かに告げられた言葉は、しかし祐榎が予想していたものとは違っていた。
「王宮、いえ、後宮へ入っていただきます」
 極々短く、簡潔な言葉。
 それは祐榎の耳にも届いていたものの、頭は空回りし、言葉が意味することを理解することはできなかった。
 何を言われたかわからない、と言いたげに、祐榎はポカンと口を開けた。
 その反応は予測できていたのだろう、広潤は顔色一つ変えることなくさらに言葉を紡ぐ。
「側室として迎える、との、陛下からのお言葉です」
 続く言葉は、しかし祐榎の耳に入ってはいなかった。
 後宮に入る。
 その言葉だけを何度と無く頭の中で反芻し、ようやく意味を理解するまでになると、驚愕がゆるゆると全身を包み込んでいった。
 後宮は現王である祥伯に仕える女達の住処。
 そこに入るということは、どういうことか。
 もちろん、祐榎にもわかっている。
 わかっているけれど、問わずにはいられない。
 自分の考えが間違っていると、思い違いをしていると、そういう意味ではないと、言って欲しいから。
「どういうこと・・・ですか」
「そういうことです」
 しかしあっさりと肯定される。
 一切の感情が削げ落ちたその表情に、祐榎は恐怖すら感じ始めていた。
 冷酷で怜悧な官吏。いつだったか笙耀がそう評していたのを思い出していた。
 王命は絶対。それを遂行するのが当然。そこに祐榎の、他人の感情など関係があるはずが無い。
「私に、陛下の側室になれ、と」
「はい」
 祐榎をじっと見つめ、広潤は答える。
 自分が後宮に入る。
 ありえない、と心は否定し叫ぶ。
 だって自分には・・・自分には?
 その時、秀慧の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
 そうだ、王命とはいえ、秀慧がそんなことを許すはずが無い。『何があっても、俺は君の味方だから』と、そう言った彼が。
 けれど同時に、本当にそうか、と疑問を投げる自分もいた。
 誰よりも兄を敬愛する彼である、兄が強いるならば、それに従うのではないか。自分より兄を選び、自分を兄に差し出したということはないだろうか。
 そんなことはない、と頭を振る。
 秀慧を信じている。彼を信じている。けれど、信じて裏切られるのは怖い。
「秀慧様は・・」
「あの方にはまだお話しておりません。秀慧様には昨年と同様に、地方視察の命が下ります。しばらくは都を離れることになりましょう。貴女が後宮に入られてから、ご説明申し上げます」
 秀慧はまだ知らないのだ、自分が側室にと望まれていることを。
 彼の心が離れたわけではないとわかり、ほっとしたが、同時に恐ろしくなった。
 つまりは秀慧には内密で、全ての事を進めようとしているのだ。
 全てが終わった後に聞かされる彼の怒りと絶望は、どれほどのものだろう。
 その時には自分は後宮に入っている。秀慧と言葉を交わす機会などあろう筈は無い。
 もう彼とは二度と会えないかもしれない。
 秀慧を愛している。失いたくない。
 だから・・・。

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