興来国奇譚

興来国奇譚 9

祐榎は秀慧に手を引かれ、珠瑛の部屋を出たそのままの勢いで離宮内を駆け抜ける、というよりは引きずられていた。

既に太陽は高くにその位置を変え、暖かい光が惜し気もなく廊下を照らしている。
その光を感じる余裕さえなく、緩むことのない速度で走り続ける。
離宮の入り口に着いたころには祐榎は呼吸さえままならぬ様子であった。

その様子に気づいた秀慧は、廊下の端に少女を座らせる。
ようやく解放されたその場で、少女は肩で息をしながら必死に呼吸を整える。

「ごめん祐榎、大丈夫?」
「平気です」

まだここは離宮内である。
宮殿に入り、その正門まで行く以外に城内から出る方法はない。

少し休めば大丈夫ですと祐榎は言う。
心配そうにのぞき込んでいた秀慧が、祐榎の呼吸が整うまで待つと、

「祐榎、ここにいてね」

そう言って宮殿のほうに走って行った。
何をしようというのかわからないが、その背を優しいまなざしで見つめていた。

彼はいつも、何事にも一生懸命だ。
自分が言った、何げない一言にも本気で考えてくれる。
自分のことを一番に考えてくれている。
それが彼にとって本当に良いことなのか、彼の立場を危うくしてしまわないか、このごろ祐榎はそればかりを考えていた。
もし彼の不利になるような事態が起これば、自分は身をひこう、と。

「相変わらず元気だよな」

突然声が頭上から響く。
顔を上げると、背の高い青年が秀慧が姿を消した廊下を見つめていた。

「駿雷様」

兄である延笙の親友、駿雷であった。
当然祐榎とも顔見知りである。
妹のいない駿雷にとっても、彼女は妹同然の少女である。
その祐榎をちらりと見、人の悪い笑みを浮かべてからかうように言った。

「秀慧様が祐榎を怒らせたって?」
「‥‥どうして知ってらっしゃるの?」
「陛下がおっしゃってたからな。どうやらおまえがやって来たときは、陛下が離宮を訪れておられていたらしい。延笙に、おまえの怒りをといてくれっておっしゃってたよ」
「そんなこと、一言もおっしゃらなかったわ」

それならばそうと言ってくれればよかったのだ。
陛下が彼に会いに来ていたのなら、そう言ってくれたなら、その場を引いて出直したのに。
大きく息をはく。先にそのことを話してほしかった。
妙におどけた様子で駿雷は肩をすくめる。

「言い訳をなさるようなお方じゃないさ。どんなに言葉を尽くそうと、誰が悪いかなんて明らかじゃないか」
「それにしたって‥‥‥」
「おまえだからだよ。他の奴にだったら、あの方は言い訳がましいことでも言っただろうが、おまえにはそんなことをしたくなかったんじゃないか?どちらにせよ、約束を忘れていたわけだし」
「つまり、本当に忘れてしまっておられたわけね」

聞き咎め、祐榎が駿雷を睨んだ。
それが本当ならば秀慧に向けられたものであると悟り、駿雷は焦った。
火に油を注いだ、まではいかずとも、余計なことを言ってしまったようだ。
こんなことが知れたら、秀慧に恨まれてしまう。

とぼけた顔の裏にそれを押し隠し、視線をあさってのほうに向けた。
だが、祐榎の視線から逃れることはできなかった。その瞳が答えを求めている。
仕方なく駿雷は独り言のようにつぶやいた。

「‥‥‥そういうことだな」

事実を事実として伝える義務がある。自分はそれを行っただけだ、と言い聞かせた。
陛下ではないが、あとのことは本人達に、秀慧様にお任せしようと。

「ところでな、祐榎」

と、さっさと話題を変えてしまう。
今の雰囲気ではそれが一番である。

「おまえ、王妃になりたいか?」

さりげない口調ではあったが、その内容たるやとんでもないものである。
とっさにその言葉の意味を理解できない。
何度か言葉を頭の中で反芻するにつれ、それはゆっくりと頭の中に浸透していった。

 わたしが、王妃に?

それが意味するのはいくつかある。

一つは現王妃である祥伯王の王妃に成り代わり、自分が正妃になること。
だが、秀慧に肩入れしている彼がそんなことを望んでいるとは思えない。
自分たちを引き裂くことなく、という前提のもとに考えるべきかもしれない。

では、どういうことだ?

ゆるゆると訪れる驚愕。
それが意味することを思い、祐榎の顔は青ざめた。

もう一つの意味、それは、秀慧が王になる可能性を指しているのではないのか?

王である祥伯がそれを譲るとは到底思えない。
だが当然のことながら一国に二人も君主は要らない。
否、いてはならないのだ。
そんなことになれば、国は混乱してしまう。

駿雷の真意をはかりかね、ゆっくりと彼の顔を仰いだ。
震える唇から言葉を紡ぐのに、かなりの努力を要した。

「どういう、意味?」
「その顔は分かっているんだろう」

にっと笑った表情に、祐榎は全身を震わせた。
凄味のある視線が、少女の体を包み込む。
その顔は、普段の、自分の知っている駿雷の彼ではない。
幼いころに遊んでくれた年上の青年の顔ではなかった。
獲物を前にした獣の顔だった。
だがそれは一瞬のこと。すぐにいつもの調子に戻り、和やかな表情を見せた。

「俺としてはそれを願ってるんだが、延笙たちは良い顔しないだろうな」

そういう問題ではないのだが、彼は肩をひょいとすくめる。

このようなことを平然と言えるのも、もちろんここが離宮で人の気配が全くないためである。
このようなことがだれかの耳に入り王に告げられでもしたら、たとえ彼のような身分の者でも、いや、そうだからこそ即刻首をはねられる。
祐榎だからこそ言える、それが彼の本心であった。

見事に整えられた庭園を眺めながら、駿雷はポツリと言った。

「さっき、秀慧様に反乱の容疑がかけられた」

駿雷の顔を見つめていた祐榎の瞳が大きく開かれた。

「俺も延笙も否定したし、何より陛下が一蹴なされた。だからあの場限りでおさまったが、秀慧様をよく思わない者からすれば、これは絶好の機会だよ。嚇樹殿も広潤様も、躍起になってその証拠を捜そうとするだろう。秀慧様を陥れようとするかもしれない。だから祐榎、秀慧様をお護りするためにもおまえの協力が必要なんだ」
「わたしの?」

祐榎に目を向け、頷いた。

「秀慧様はおまえの望まぬことを無理にしようとはなさらないだろう。おまえが望さえしなければ、兄陛下と対立しようとは思われないはずだ」
「駿雷様は、わたしが秀慧様をけしかけるとお思いなのですか?」
「おまえがそんなことをするはずがないってことは、延笙の次ぐらいにはわかっているつもりだよ。だが、おまえは宮殿のたぬきどもを知らない。奴らは目的のためならば何でもする。小娘のおまえを思いどおりに操ることくらいわけないはずだ。おまえの、秀慧様に対する影響力は利用する価値があるからな。だが、そんなことは俺たちがさせやしない。俺にも延笙にも、おまえを護ってやれるぐらいの力はある。だからおまえは安心していい。ただ、今の話だけは心に止めておいてくれ」

祐榎は王妃の位を望んではいない。

秀慧を謀反人にしないためにも、祐榎はそうでなければならない。ひとかけらも思ってはならないことだ。秀慧が祐榎のことを想っている限り。

話の内容が祐榎を驚かせなかったと言えば嘘になる。
青ざめ、震える体を抱き締める。
それでも祐榎は頷いた。
マヒしてしまった感情とは別の位置で、駿雷の言うことは正しいと、彼の言うとおりだと理性が判断を下していた。

駿雷がほっと息をついた。
祐榎は少女ではあるが頭がいい。
わかってくれると思っていたので、話したのである。
おそらく延笙は彼女に何も告げないだろう。
しかし、秀慧を護るためには、彼女の協力がどうしても必要だ。

「ありがとう、祐榎」
「いえ駿雷様、わたしの方がお礼を申しあげます。わざわざお教えいただいて」

人を魅了する、極上の笑みを見せる少女。
鮮やかな唇に、若々しい生気があふれている。
誰もをひきつける、一種のカリスマがその少女には生まれつき備わっていた。
秀慧でなくとも見入らずにはいられない。

駿雷の気掛かりは、ここにもあった。

祐榎は日に日に美しく成長していく。
その少女は王弟の思い人だ。
密かに思いを寄せても、横から奪い去る者はいないだろう。
ただ一人を除いては。
彼よりも大きな力をもつ、唯一彼に命を下せる存在、祥伯が、王が見初めてしまわなければよいが。

王とてわかっているはずだ。
弟の恋人を取ろうなどと思わないはずだ。
そう願いたい。

だが、どうしてもその懸念を打ち消すことができないのだ。

駿雷がそんなことを考えているとは思ってもみない祐榎は、ふと顔を上げ、庭園を見渡した。
馬のひずめの音が聞こえた気がしたのだ。
それは駿雷も同様だったようで、思考を一時中止して、目をすがめた。

早足で駆ける馬の背にゆられながら、秀慧が近づいてくるのが見えた。
祐榎のすぐ目の前で馬を止め、秀慧はひらりと飛び降りた。

「おまたせ、祐榎」

それから駿雷にも目を向ける。

「珍しいな、駿雷。おまえが姉上の離宮を訪れているなんて」
「延笙から祐榎がここにいると聞いて。ちょっと祐榎に用があったのでね」
「その用とやらはもう終わったのか?」
「はい。たった今。ちょうど良いところに秀慧様が現れたのですよ」

いつものように、にこやかな笑みを見せる駿雷に、秀慧は苦く笑う。

「用件っての、想像つくよ。どうせ兄上にでも聞いたんだろう、例の話を」
「そのとおりですよ。秀慧様が祐榎を怒らせたという噂は、もう宮殿住を駆け巡っています。祐榎をなだめようと思っていたのですが、この分では仲直りされたのですか?」
「まだだよ。もうしばらくは、許してくれないらしい」

情けない顔を見せ、嘆息とともにこぼれた言葉に、駿雷は吹き出した。
いつも自由奔放を絵に描いたような人物が、まさかこの様な顔を見せるとは。

込み上げる笑いを必死でこらえている様子に、秀慧はほおを膨らませて抗議した。

「勝手に笑ってろ。祐榎、おいで」

ひょいと祐榎を抱き上げて、おとなしく待っている馬の背に乗せる。

「わざわざ宮殿の正門まで行く必要ないよ。ここから馬で帰ろう」

そのために彼は正門の裏にある馬小屋までひとっ走りし、馬を連れ戻って来たのだ。
本来ならば馬でこの離宮の庭園に入ることは禁じられている。
離宮と宮殿とをつなぐこの庭園を護る兵は常時いるはずだが、相手が秀慧では、近衛兵も見逃すしかなかったようだ。それとも、彼の人徳がそうさせたのだろうか。
祐榎のさらに背後に自ら乗り込み、手綱を持った。

「駿雷」

笑いがおさまった駿雷を見下ろし、秀慧が言った。

「祐榎を送って行くと、延笙に伝えておいてくれ。祐榎が正門からでてはいないと聞けば、延笙が心配するだろうからな」
「承知しました」

二人の姿をほほえましく思いながら、駿雷は一礼する。その彼を残し、短い芝を踏み締めながら馬は走り去って行った。
それから十数分と経たないうちに、二人は笙耀の屋敷にたどり着いた。
家に寄って行かないかという祐榎の誘いを断り、秀慧は宮殿に戻った。

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