興来国奇譚

興来国奇譚 8

一見平然としていたが、彼女をよく知るものが見れば彼女が現在どれほど腹を立てているか分かったことだろう。
そして、彼女をよく知る人物がここにいた。

「いったいどうしたっていうの?」

幼いころから彼女を見知っている珠瑛は、不思議そうにたずねた。
秀慧が最初に思った通り、祐榎がこの日の朝珠瑛の離宮を訪ねたときには、当の主は不在であった。
そのまま離宮に待たせてもらおうかとも考えたが、秀慧との約束のこともある、彼を待たせては悪いだろうと、先に秀慧が住む離宮を訪れたのである。しかしその顛末は、先ほど述べたとおりであった。
再び別棟の離宮を訪れると、今度こそ珠瑛が出迎えた。
だが彼女は、祐榎を見るなりそう言ったのである。

「・・・なんでもありません」
「嘘おっしゃい。そんな顔をして。秀慧と何かあったの?」

ぎくりと頬を強ばらせる。それから、息をついた。
珠瑛に、彼女に隠し通せるはずないのだ。
それに、悪いのは自分ではない。約束を忘れていた秀慧の方なのだ。

仕方がない、というため息をつき、祐榎は全てを珠瑛に語った。
はじめは静かに聞いていた珠瑛も、話の半ばからだんだんとあきれ顔になり、話が終わると額をピシャリとたたいた。

「‥‥何を考えているの、あの子は」

つややかな唇からは、もうため息しかこぼれない。
秀慧の間抜けぶりに、実の弟ながらほとほと愛想が尽きていた。
真面目な顔で、珠瑛は祐榎の瞳を見つめる。

「祐榎、悪いことは言わないわ、あんな弟なんか、見限ってやりなさい」
「しゅ、珠瑛様」

どうやら本気で言っているらしい珠瑛に、祐榎の方が慌てる。
もう一度ため息をつくと、今度は瞳が和らいだ。
いつものように、優しい声で珠瑛は言葉を紡ぐ。

「本当よ。もし、あり得ないことだけど、これで謝りもしないようなら、あの子を見限ってかまわないから。姉である私が許すわ。誰も、兄様にも文句は言わせない。そしてね、祐榎、あの子が謝ってきてもあなたが許せないなら、その時は私に遠慮なく言ってちょうだいね。あの子は私の弟だけど、あなたも私の妹も同然なのよ。今回の場合、確実にあの子の方が悪いわ。それはあの子にも分かっているはずだもの。まったく、とんでもないことを言ってくれたものよねえ」

秀慧の私室にて、彼が言った言葉は全て祐榎に聞こえていた。
彼としても客に聞こえるように言ったのだから、当然のことである。
だが今回それはかなりまずいほうに働いてしまった。祐榎の憤りも当然、と珠瑛さえも思っている。

後先考えずだからそんなことになる。
まったく、兄のひとかけらでも思慮深さという物をもらったらどうなのだ。
当の自分よりも怒っているような珠瑛に、恐る恐る話しかけた。

「あの、珠瑛様?わたしはもう‥‥」
「怒ってないと言いたいなら、今度は私が怒るわよ、祐榎」

と、本当に睨まれたものだから、祐榎は首をすくめた。

「そうやって誰もがあの子を甘やかすから、あんなふうになってしまったのよ。まったく、もうこの国の政治に携わってもおかしくない年なのに、あの子ったらいつまでも遊んでいて!兄様も兄様よ。どうしてお手本となるべき存在が、何よりも威厳を求められる王が、どうしてあんなにも秀慧に甘いのよ!」

言葉を荒げながら、珠瑛は叫ぶように言った。
その迫力に押され、祐榎は絶句している。
その間も、珠瑛の怒りはおさまらないようだ。

「皆が皆そうだから‥‥!特に駿雷は、あの方はっ!」
「お、落ち着いてください、珠瑛様」

祐榎の静止がきいたか、ようやく珠瑛が言葉を区切った。
大きな、本当に大きなため息をついて、珠瑛はようやく落ち着きを取り戻して来たようだった。

「そうね、こんなことは本人に言わないと。兄様にも直訴しないとね」

この人の性格からすると、本当にそうしかねない。
困惑した表情を浮かべる祐榎に、人差し指を示し、諭すように言う。

「いい、祐榎。秀慧が謝りに来たとしても、簡単に許してはだめよ。そんなことをしてはあの子は付け上がるだけだから。しばらくは怒っていてね。少し反省させた方がいいわ。あの子にはそれが一番効くようだからね」

有無を言わせない口調に、祐榎は頷かされてしまった。
それに満足したか、いつものように人を魅了する穏やかな笑みを浮かべる。
祐榎はもう慣れ切ってしまっているが、その落差に、しばしば絶句させられる人間がいることは確かである。

「それで、祐榎は何か用事があったのではないの?」
「そうでした」

秀慧の一件ですっかり忘れていたが、ここに来た理由は別のことである。
秀慧の態度を珠瑛に報告しに来たのではないのだ。
祐榎は改まって珠瑛を見つめた。

「申し訳ありませんが、珠瑛様、しばらくお暇をいただけませんか」
「そうね、笙耀殿の事が心配ですものね。笙耀殿も、祐榎がそばにいたほうがうれしいでしょうね。かまわないわ、好きになさい」
「ありがとうございます」
「でも、笙耀殿が良くなられたら、また出て来てくれるのでしょう?」
「お許しいただけるなら」
「許すも何もないわ。大切な妹ですもの、願いをかなえてあげたいだけなのよ」

珠瑛はくすくすと笑った。それにつられ、祐榎も笑みを浮かべた。
祐榎が続けて何かを言おうとしたそのときのことだ。扉の向こうから、声が聞こえて来た。

それが女性のものならば、さして気にしなかっただろう。
この離宮に勤めている女官であると思われるからだ。
もっとも、扉越しに聞こえるほどの大声ならば、その無作法さをとがめられはするだろうが。

だが、そうではなかった。

「なあにしてるの、にいさま」

明るい、そしてまだ舌足らずの声は、汐穂のものである。
その汐穂が『にいさま』と呼ぶ人物。それは一人しかいない。
もう一人の伯父である祥伯は、彼女に『おじさま』と呼ばれて苦笑しているのだ。

娘の声に、母親である珠瑛の頬がピクリと動いた。
祐榎はといえば、その声の持ち主よりも、黙り込んだ珠瑛の反応の方が気になっていた。

部屋の中には珠瑛に仕える女官はいない。
祐榎がいれば、彼女がすべての世話を行うために必要ないからだ。

珠瑛はその祐榎に様子を見に行かせるのではなく、自らその真相を知るべく無言のままに立ち上がった。
足早に、彼女にしては珍しく、やや乱暴に扉を開ける。
予想通りとでもいうのか、そこには楽しそうに服のすそを引いている愛娘の姿と、ばつが悪そうにあさってのほうを向いている愚弟の姿があった。
珠瑛はことさら冷ややかな一瞥をくれる。

「あなたを招いた覚えはないのだけれど、どうしてここにいるのかしら」

その口調に、秀慧は事態の進行を悟った。
すでに事の次第が珠瑛に伝わっているのだ。後ろめたさから、対等には目を合わせづらい。
珠瑛よりも頭ひとつ以上高い秀慧が身を縮ませて上目使いに彼女を見る。

「‥‥やっぱり、祐榎、ここにいるんだ」
「祐榎を責めるのはやめなさいね。私が無理に話させたのよ」
「それぐらいわかってます」

言い捨てると、おもむろに汐穂を引きはがし、珠瑛の手に預けた。
その扱いに不満らしく、汐穂は頬を膨らませていたが、そんなことにかまっていられる秀慧ではない。
さっさと部屋に入り、一人居た祐榎の傍らに立った。見上げる祐榎と視線が合った刹那、

「ごめん!」

勢いよく下げられた頭に、祐榎はしばし呆然としていた。

「俺が全部、一方的に悪いんだ。本当に悪かった。謝るよ」
「お顔を上げてください、秀慧様」

我に返り、あわてて言う。
この人に頭を下げさせられるような身分では決してない。それを承知している。
祐榎の願いで、やっと秀慧は顔を上げた。
それでも瞳は、しかられている子供のようである。いささかその体の大きさに問題はあるが。

「本当にごめん。言い訳もないよ、祐榎」
「許すことはないわよ」

とんでもないことを言われ、ギョッとして振り返る。汐穂を抱き上げた珠瑛が、秀慧を睨んでいる。

「姉上!姉上は関係ないでしょう!」
「祐榎一人にしておけば、簡単に許してしまうのが目に見えているわ。祐榎、許してはだめよ」
「わかりました」
「ゆ、ゆうか‥‥」

引き結ばれた紅い唇には笑みがたたえられていた。
既に女性二人の間に話し合いはすんでいるのだ。これは当分許してもらえそうにない。
祥伯や延笙はあてにはならない。
自分がおかれている立場というものをしっかり再認識させられた秀慧は、深い深いため息をついて、その場に座り込んでしまった。
珠瑛の手から逃れた汐穂は、彼女なりに事態を認識し、秀慧の肩にぽんと小さな手を置いた。

「にいさま、げんきだして」
「誰のせいだっ」

八つ当たりなのはわかっていたが、自分が見つかったのはお前のせいだとばかりに、つい叫んでしまった。
手こそは出なかったもの、かみつかんばかりの勢いに驚き、汐穂は顔をゆがませる。
これは明かに泣く前兆である。

「‥‥げっ‥‥」

たらりと頬から汗が落ち、なんとかご機嫌をとろうとなだめにかかる。
が、既に時遅し。
大粒の涙が大きな瞳に浮かんでいた。

秀慧はほとんど反射的に両手で耳をふさぐ。
珠瑛も祐榎も間に合わなかった。
それから十を数える間もなく、汐穂は壮大な泣き声を披露した。

「秀慧っ!」

原因を作った弟をとがめておいて、汐穂を抱き上げた。
彼女をあやしていた珠瑛は、そう簡単に泣き止まないと見、たまりかねたように弟に向いた。

「秀慧、罰よ。祐榎を家まで送りなさい。祐榎もいいわね」
「はいっ」

そんな罰なら異論はない、むしろ大歓迎である。
いつものことながらこの泣き声に辟易していた秀慧は祐榎の手を引っ張り、部屋を走り去った。

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