興来国奇譚

興来国奇譚 3

笙耀の容体が好ましくないということは珠瑛の耳にも届いていた。

高齢でもあることだし、何よりあの事件が彼の体をむしばんだということは疑いようもない。
あの事件以来、笙耀はふさぎこんでしまい、宮殿に姿を見せることも希となってしまった。
前王に仕えていた彼にとって、現王であり兄であり祥伯は敵とも言えるのだから。

何度目かのため息をついたとき、その声が珠瑛の耳に届いた。

「あっれ?」

緊迫感のかけらもない声である。
ついでに言えば、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌である。

それに心当たりのあり過ぎる珠瑛は、顔をしかめた。
取り次ぎはおろか、扉をたたくことさえせずにこの弟は顔をのぞかせていた。
いつものことであるが、珠瑛は実の弟をたしなめる。

「秀慧。もう少し礼儀と言うものを心得なさい。あなたは、王弟なのですよ」
「はいはい、わかっておりますよ姉上」

こちらもいつものように、うるさい説教をかわす。
ほとんど社交辞令のようになりつつあり、両者とも本気で言っているのではない。
いや、珠瑛の方は半ば本気なのだろうが、いくら言っても聞かないので諦めつつあるのも事実である。

ため息をついている姉とは対照的に、弟はにこやかに言ったものだ。

「姉上、こちらに祐榎が来ていると聞いたのですが」

祐榎の姿は見えない。姉のしつこい説教よりも、そちらの方が大事だ。
彼女は一体、どこに行ったのか。

「祐榎は」

言葉を切り、呼吸を整える。それを怪訝に思い、秀慧は首を傾げる。

「姉上?」
「祐榎は屋敷に戻りました。笙耀殿が倒れたと、知らせが来たのです」

目を見開いて、秀慧は表情の一切を消した。
呼吸をおいて、それから真顔で言う。

「笙耀殿が‥‥」
「ええ、お悪いとは聞いていたのだけれど。‥‥祐榎もつらいでしょうね」

祐榎と延笙、二人の母親は、祐榎を生んですぐ亡くなった。
祐榎は母親の顔を知らず、育てられた。
そんな祐榎を不敏に思い、笙耀は祐榎をこの上なく可愛がった。
十二歳も年が離れた兄延笙も、妹を慈しんできた。

何不自由なく育てられ、いつも笑顔で宮殿内を明るくしていたた祐榎が、ここ最近沈みがちであった。
その原因が、父親である笙耀の体調にあることを、今や知らない人間は宮殿内にはない。
そして、宮殿内に祐榎に好意的でない者は一人としていない。
密に秀慧を慕っている人物でさえ、祐榎が相手なら仕方がないとさえ感じている。
万人を引き付ける不思議な魅力を、祐榎は生まれながらに身につけていた。
実はそれは、秀慧の悩みの種でもあるのだが。

秀慧がつぶやくようにぼそりと言った。

「お見舞い行ってこうかなあ」
「お見舞って、誰の?」
「誰って、もちろん祐榎の‥‥」

言ってから、あっと口を押さえる。その様子に思わず苦笑する珠瑛である。

「あなたって子はまったく‥‥。笙耀殿の容体よりも、祐榎の方が大事なのね」
「まあ、それは‥‥否定できないなあ」

苦笑する秀慧の顔も、いつもとは違い精彩を欠いていた。

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 自宅にたどり着いた祐榎は、家人が呆気に取られるほどの勢いで駆け込んだ。生まれたときより住み慣れている屋敷である。案内など必要もない。

「お嬢様!」
「お待ちください、祐榎様!」

このままこの家の主の部屋に飛び込みかねない。
それが安静を必要とする病人にとっていいものであるかどうかは明白である。

後ろから、彼女を落ち着かせようとしてか、いくつもの声がかかるが、そんなもので止まる少女ではない。そのままの勢いで、父である笙耀の部屋の扉を開けた。

「お父様!」

中にいた女性が振り向いた。
その向こうに、寝台に横たわる一人の老人の姿がある。
手前にいた女性は、眉を上げて少女をしかりつけた。

「祐榎様!お静かになさいませ!」

だがその言葉が、すでに意識を寝台に向かわせていた祐榎の耳に入るわけはない。側による祐榎に、その女性は場を譲った。

「お父様」
「祐榎か‥‥」

白髪の混じった黒髪が揺れる。にこりと笑んだ顔色はよくない。だが、思ったよりも元気そうな様子に、祐榎はほっとした。

「驚いたわ。お父様がお倒れになったと聞いて‥‥」

笙耀は苦笑するように顔をしかめる。

「大げさなのだよ。少しめまいがしただけだ。それを皆が寄ってたかって、床に縛り付けたがる」
「だんな様にはこれぐらいがちょうどいいのです」

憤然として言ったのは、この場にいる第三者であった。
全体的にふっくらとした女性であり、人を包み込むような暖かさの持ち主である。
祐榎の母親代わりであり、延笙がうまれる以前よりこの家にいる、古参の者である。
それだけに、笙耀からの信頼も厚い。

「彩季のいうとおりよ、お父様」

祐榎もまた、軽く睨みつける。

「お願いですから、静かに養生なさってください。お身体が完全によくなるまで、横になっていてください。何かにつけて起き出されたのでは、よくなるものもよくなりません」
「私も祐榎様に賛成です。薬師の方もぼやいておられましたわ。だんな様は少しでも調子が良くなられると、床を抜け出されると。一時たりともじっとしておられない、子供のようなお方ですとね」

ここまで言われれば、流石に笙耀も黙っていられなくなったらしい。
何か言いかけようとしたが、それを制するかのように、小間使いの女性が姿を見せ、来客を伝えた。

このようなときに誰が、と彩季は思ったが、その女性の後ろに姿を見せた人物を見、急いで頭を下げた。
長身のその人影は、起きることさえ自分の意思ではままならない主に代わり、実質的に現在この家を仕切っている人物。
延笙である。

父親の病床に姿を現した長男は、自分を案内してくれた女性に一言二言何かを伝え、ほっとするというよりも苦笑に近い笑みを浮かべたまま近づいて来た。

「人騒がせなことはおやめいただきたいのですが。陛下も珠瑛様も大変心配なされておられましたよ」
「おまえは少しも心配していないようだな、延笙よ」

言葉の辛辣さとは裏腹に、悪戯っぽく笑う。
今度ははっきりと苦笑して見せ、胸の辺りにある祐榎の頭をぽんぽんとなでた。

「父上のお身体の心配は、祐榎に任せますよ。だが、そのご様子ならばそんな心配もいらないか。祐榎、こんなひがみっぽい年寄りの相手をする必要はないよ」
「口が悪いのね、お兄様」

困ったような笑顔を見せる祐榎だった。

そこに、先程の小間使いが、何者かを伴って再び姿を現した。
延笙は振り返り、にこりとその人物に笑みを見せる。
笙耀もそれに気づいたようで、目を走らせる。
その人物の姿を認め、眼を輝かせ、柔らかな笑みを見せた。目だけで礼をとる。

「このような場所から、失礼を致します」
「かまわないよ。俺は気にしないから。そんなことよりも、あなたの身体の方が大事だからね」

のんびりとした口調、声に覚えがある。祐榎はあわてて振り向いた。
すぐ後ろに、その人物はいた。
延笙よりもわずかに低いが、かなりの長身の青年である。
それはもちろん、秀慧であった。

「秀慧様‥‥」
「姉上が大層心配されていてね、見舞って来いと言われたよ」
「という口実をつけて、祐榎に会いにいらしたのでしょう」

笑みを絶やさずに、笙耀が言う。
彼は秀慧を大変気に入っている様子だ。
好意的な口調が、何よりも雄弁にそれを物語っている。
対して秀慧は、見事に言い当てられて、苦笑するふうだった。

「だけど、笙耀殿のことも気にかかったのは確かだよ。あなたは先代の御代、この国の発展に大変貢献された方なのだから」
「私のことも、ですか」

明らかに皮肉と分かる口調に、再び秀慧は苦笑する。
まったく、人の揚げ足を取るのが好きな人物である。

「言葉のあやだよ。ったく、子供じゃあるまいし、ひがみっぽく言うんじゃない」
「あやでなくとも結構。祐榎のことが心配なら、はっきりとそうおっしゃってくださいませんか」

秀慧は天井を仰ぐ。
どうしても自分の口でそれを言わせたいらしい。
口で笙耀に敵うはずもなく、降参し、諸手を挙げる。

「わかった。祐榎が心配だから訪ねて来たんだ。これで良いか?」
「はじめからそうおっしゃればよろしいのです」

満足そうに何度も頷く笙耀に、祐榎が顔を赤らめて抗議する。

「お、お父様!いいかげんになさってください!」
「はは、悪かった」

娘の怒りを押し止どめながら、笙耀は言った。

「祐榎、こんなところにいつまでも止めておいては、秀慧様も退屈であろう。後はおまえがお相手しなさい。彩季、私はしばらく眠るとしよう、皆を下がらせなさい」
「はい、仰せのとおりに」

彩季は頭を下げ、異論を唱えさせる暇もないほど素早く動いた。
祐榎と秀慧をさっさと部屋から追い出し、自分も外に出る。
その後ろを、苦笑をかみしめながらついて行こうとしていた延笙の背中に、低い声がかかる。

「延笙、少し、いいか」

先程までとは違う、真剣な表情である。
どうやら祐榎には聞かせたくない話らしい。

その気配を察し、延笙もまた、顔を引き締める。
だれもいないことを確認してから、後ろ手に扉を閉め、笙耀に近づいた。

「延笙、おまえ、祥伯様をどう思う」
「父上」

たしなめるような声を出し、延笙はそれ以上の言葉を制した。
笙耀のその声に、好意的な色合いが含まれているとは言い難かったからだ。
現王の批判は、国王に対する反逆でもある。心の中では如何に思おうと、それを口に出してはならない。
たとえそれが、笙耀のように高い功績をたたえられた者であっても、だ。

「父上のおっしゃる事とは思えません。陛下は、この上ない主君でございますよ」
「本当にそう思うておるのか、延笙よ」

真顔で詰め寄られ、返答を迫る。その迫力は、嘘を許さないものがあった。
老いて尚、興来国にその人有りと言われた笙耀は健在であった。

延笙は即答できなかった。心の内までも見抜かれたような気がしたのだ。
そしてこの間こそが、彼の本音を語っている。

笙耀はふと目元をゆるめ、視線を外した。

「おまえが何をしているか、何を考えているかは聞くまい。だが延笙よ、祐榎だけは護ってほしい」

呆れたように、延笙は実の父親を見やった。
祐榎は妹である。今までも護って来たつもりだ。

「何をいまさらとでも言いたそうだな」
「その通りですよ。お解りならば、わざわざ言われることでもありませんでしょう」
「今まで以上に、ということだよ。私はもう、あれを護ってはやれん」
「父上、何をおっしゃいます。まだまだ父上は‥‥」
「自分の身体ぐらい、自分でわかる。長くはない」

自嘲気味にそう言い、大きく息をつく。
延笙は黙っていた。
笙耀を見た医師も、同じことを言っていた。
もって一月、早ければもっと‥‥。

祐榎には言えなかった。家人も知らない。
延笙一人が知っていることである。

「わかりました」

笙耀の顔が、薄い笑みを浮かべたように見えた。

「大切な妹です、出来得る限り、祐榎を護ります。秀慧様も、祐榎を大切に思っておられます。あの方と力を合わせ、護っていきましょう」
「秀慧様、か」

うれしそうに笑いながら、笙耀は天井を見つめた。

「あの方と祥伯様、どちらが本物の王であるやら」

あまりのことに絶句した延笙に、笙耀は目を向けた。

「もうよい、疲れた。私は眠るとしよう」

目を閉じた笙耀を見、延笙はため息をついた。それから部屋を後にした。

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